長きにわたり、福岡の中核病院の一角を担ってきた国家公務員共済組合連合会浜の町病院の第9代病院長を拝命いたしました谷口修一です。
出身は鹿児島です。両親は現在の霧島市国分の出身で、鹿児島おはら節で「花は霧島、煙草は国分」と謳われ、古代には熊襲・隼人族が住んでいた地域です。昭和59年に九州大学卒業後、第一内科に入局し、専門は血液内科です。最初の浜の町病院赴任は平成2年です。ちょうど旧病院の別館が新築され、当時福岡でも数少なかった無菌病室が設置された時で、その年に当院第1例目の骨髄移植を担当いたしました。その後、アメリカ留学3年を挟み、10年間お世話になりました。元々定評のあった浜の町病院の血液病科でしたが、「ことわらない」、「なんとかする(したい)」を合言葉に国内屈指の血液内科施設に成長しました。
平成15年からは同じ国家公務員共済の虎の門病院に異動しました。浜の町で培った「ことわらない」、「なんとかする(したい)」姿勢の医療は患者さんの居住地域と離れた東京都心では展開しにくく、90万の人口を擁する世田谷区にある同じ国家公務員共済の三宿病院と東京のベッドタウンである川崎市にある虎の門病院分院に血液内科を新設し、今でも虎の門病院血液内科から全てのスタッフを送り、住民と近接する病院として地域に貢献しています。虎の門病院本院も、無菌病室48床を含む責任病床120床を擁し、年間に150例以上の造血細胞移植を実施する巨大なチームに成長しました。わずかなスタッフで始めた虎の門分院血液内科ももはや神奈川県を代表する血液内科・移植施設となっています。
浜の町病院は、終戦直後から京城帝国大学医学部の先生方が京城の地で「罹災民救済病院」を開設、引揚中の列車や船舶の中でも「移動医療局」として引揚者の健康管理をされ、帰国後は御供所町聖福寺の地で帰国者の治療をした「在外同胞援護会救護部」をその起源としています。いずれもGHQと外務省公認の施設です。先生方ご自身も引揚者でご家族もおられる中での医療活動さぞや大変な業務であったろうと想像します。求められる時に求められる医療を行い、我が身も厭わず、目の前で苦しむ人を救う、これがまさに医療の原点でしょうし、このような戦後の尊い医療活動を当院の起源とすることに誇りに感じます。この浜の町病院創世記の初代院長は副総理までお務めになった緒方竹虎氏の実弟にあたる緒方龍先生です。この緒方の姓は緒方洪庵の流れをくむとのことです。ちなみに私の九大教養部時代の担当教授は緒方龍先生の甥で医師として初代南極隊に参加された緒方道彦先生でした。あまりに大きな先達で、私とは遠い存在ではありますが、18歳でひとり福岡にやってきて、九大で医学教育を受け、浜の町で内科医として育った者として、これらの歴史が大きく私を包んでくれていたような不思議な縁を感じます。
この4月からは19年ぶりに浜の町病院に帰ってきました。病院も新しくなり、ほとんどの職員が初対面ではありますが、院内歩いていると「私、わかりますか?」と少なからず声をかけられます。時代は移り、建物は変わっても病院の中を流れるトーンは変わりません。医師は診療に誠実で、看護師もまず患者ありきの柔らかさを感じます。診療技術部や事務部も正しいことを正しく実行するという姿勢はゆるぎません。浜の町病院は昔から派手さはありませんが、良いと思うことを無理なく、自然に実行できる病院と思います。私の病院の理想としては、自分の病気にさまざまな不安をもつ患者さんが、帰る時には、もつれた紐がほどけるように不安がとれて、病気と明るく向き合えるような病院でありたいと思います。そんな手品のようなことは簡単にはいきませんが、少なくとも院内で不快なことが増えないように、穏やかな気持ちで帰っていただけるように、各部署と協力し、問題点を浮き彫りにして、人材も設備も整備したいと思います。
最後になりますが、病院長として、今まで以上に地域住民の方々や先生方に頼りにされ、気軽に可愛がってもらえる病院をめざします。益々の厳しいご指導、ご鞭撻をくれぐれもお願いしたく思います。よろしくお願いいたします。
令和4年10月 病院長 谷口 修一